松坂屋でぜんざいを食べた 電気街を作った男たち 正電社 伊東雅男会長 6
2004年 06月 26日
「私が店を出したのは日本橋では6店か7店目でしたわ。大南産業という会社がありました。ここは今は松下電器産業の代理店になっているはずですわ。山電さんもありましたなぁ。弘和電気さんは日本橋5丁目で商売してはりました」
その頃の日本橋は、空襲によって焼けたり強制疎開で建物はほとんどなかったようです。当時すでにあった高島屋東別館の建物は、南側の壁面にはたくさんの銃痕が残っていたといいます。建物の持ち主はまだ松坂屋でしたが、戦後4、5年のうちに修復したそうです。しかしそれまでは「無数の穴があいてました」と伊東氏。
それは米軍の戦闘機グラマンF6Fが、屋上にあった日本軍の高射砲陣地をねらった機銃掃射によるものだったといいます。
その建物が建ったのは昭和5~7年だったそうです。松坂屋は大正13年に大阪・日本橋へ進出しましたが、建物の大きさは今の3分の1程度だったといいます。この頃には大阪の街にデパートが相次いでオープンしたといいます。
「天王寺の近鉄百貨店もその頃にできましたんや。小学校5、6年の頃やったかな、よく覚えてますわ。松坂屋へはおばさんと一緒に来て、食堂でぜんざいを食べて帰ったことがあります」
伊東氏は子供の頃から大阪・西田辺に住んでいましたが、日本橋にはしばしば足を運んでいたようです。
下駄屋さん、洋服屋さん、古着屋さんがあったそうですが、電器屋さんは一軒もありませんでした。本屋さんも新本、古本屋さんがたくさん入り混じって並んでいたそうです。中学生になると伊東氏は一人でそのうちの一店である「杉山書店」に通っています。いろんな本がありましたが、お目当ては”虎の巻”でした。