日本橋電気街に関連したニュースをお伝えする情報サイトです。 「日本橋( NIPPONBASHI )経済新聞」は 略して”バシ経”。


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やっぱり売るもんがない 電気街をつくった男たち 正電社 伊東雅男会長 5

  1945(昭和20)年8月15日の昭和天皇による「終戦詔書」の玉音放送は、国内だけでなく、海外に向けても行われ中国、満州、南方諸地域の将兵や邦人にも終戦詔書は伝えられたそうです。また詔書は、20数カ国語に翻訳して、8月15日以後も放送されたと言われています。

 伊東氏もまた15日に北京の城壁近くで放送を聞いています。しかし放送は聞き取りにくかったようです。
 「ガーガーと言っているばっかりで意味がわからへんのですわ。復員の云々と言うけれど、天皇陛下はもっとやれいうとるのとちゃうか、と仲間と話していました」

 夕方になると部隊本部から連絡が来たそうです。「機材はすべて壊せと通達を受けて初めて戦争が終わったことがわかったんです」

 アンテナはロープをかけて引き倒すなど、その日のうちに機材は壊して土の中に埋めたそうです。

 そうした経験を経て伊東氏は、大阪・日本橋で軍隊の放出品で商売を始めることになります。
 最初でこそ売る品物はなかったのですが、1年も経たないうちに国内で生産が始まってきました。それでも簡単に生産できるものが多く、たとえばシャーシ、ダイヤルや大阪音響が発売した電蓄のモーターであるフォノモーター、ピックアップなどでした。それからしばらくすると真空管も市場に出てくるようになったといいます。

 こうした品物に詳しかったのは1945(昭和20)年8月頃から日本橋で商売を始めていた二宮無線電機商会の先代だったそうです。

 「私ら素人ですからわかりませんが、長い間、中川章輔商会で番頭を務めてた人ですから、あの商品はあそこへ仕入れに行ったらいい、といったことも良く知っておられて、かたっぱしから押さえていかれましたね」

 「全部うちが買うから、他所へ出すな、というわけですわ」
 当時のラジオ店や部品店は規模が小さいため太刀打ちできなかったといいます。
 伊東氏も売ってくれと頼みに行っても一向に相手にしてもらえなかったそうです。
 せっかく商品が出回ってきたのに、相変わらず売る品物は手に入り辛かったようです。
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by sozakiweb | 2004-06-26 16:12 | 電気街を作った男たち