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日本橋電気街に関連したニュースをお伝えする情報サイトです。 「日本橋( NIPPONBASHI )経済新聞」は 略して”バシ経”。


by sozakiweb
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大晦日の帰省バス 電気街を作った男たち2 二宮無線電機商会創業者、二宮荘吉氏 6

◆東京オリンピック前後はまだ、大阪・堺筋の日本橋電気街には市電が走っていた。しかし道幅は狭かったし、周囲は木造2階建ての建物ばかりだったという。
 近隣で大きな建物と言えば松坂屋(現在は高島屋別館)と久保田鉄工(現クボタ)ぐらいだった。そんな中で4階建ての二宮無線電機商会の建物は、電気街で一際目立っていた。

 戦後、荘吉氏に部品販売を譲って撤退していた中川無線電機(旧中川章輔商会)を、すでにこの時、建物の規模では抜いていた。

 しかし親のような存在だった中川無線電機を見る目は長く特別なものがあった。
 二宮祥晃氏も「親父が世話になった会社という気持ちがずっとあった」と話している。また従業員たちも同じだったようで、「他の量販店とは激しい競争をしても、中川さんとは別でした」という。

 しばらくすると荘吉氏は電気製品の卸販売をやめ、小売に徹する決断をした。家電ブームの勢いに乗って売上げの拡大をはかろうとしたのと、卸は利益が少ないと判断したからだった。しかし、部品は引き続いて卸と小売の2本立てを続けた。
 テレビ、扇風機、炊飯器が良く売れた時代だった。

◆その頃、給料は25日、その日が日曜日だったら26日が支給日だった。年末のボーナスは大晦日の営業がすべて終わってから支給されていた。

 大晦日に遅くまで働くとボーナスとは別に3000円が支給されていた。田舎に帰省する従業員は、土産も新しい下着も買わなければならなかったから有難かった。
 しかしそのような深夜になっては汽車も動いておらず、元旦の朝に寮を出て大阪駅へ行って切符を買わなければならなかった。

 それでは可哀想と荘吉氏はバスを貸し切って、鳥取や島根に帰る従業員のために帰省バスを仕立てたという。夜11時頃、店の前を出発するのが大晦日の恒例であった。
 荘吉氏は1年間一緒に働いてくれた彼らを労うために、バスには酒とみかんをいっぱい積んでやった。しかしバスに乗ると3000円はもらえなかったという。
 山陰地方出身の従業員が少なくなっていくと、この帰省バスも自然と取りやめになっていった。

◆このように戦前の商店の様相を色濃く残していたわけだが、従業員に接する荘吉氏には厳しさの反面優しさもあった。
 社員の仲人もよくやった。結婚式では早くから式場で花婿花嫁を出迎えるのが常だったようだ。

 ある従業員が新婚旅行から帰って夫人を連れて社長に挨拶に来た時だった。その前日、従業員が担当していた富山の得意先が倒産していた。慌てた従業員は夫人を置いてすぐに得意先へ走ったが、荘吉氏は「新しい得意先をまた作ったらいい」と従業員を励ましてくれたという。
 「そんな社長だったから得意先もついて来た」という。

 茶目っ気もあった。
 休みの日に荘吉氏が店に出ていて電話かかってくると「小遣いなんでわかりません」と言って、周りのものを笑わせていたという。
by sozakiweb | 2007-02-26 16:49 | 電気街を作った男たち