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日本橋電気街に関連したニュースをお伝えする情報サイトです。 「日本橋( NIPPONBASHI )経済新聞」は 略して”バシ経”。


by sozakiweb
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物づくりには手を出さない 二宮無線電機商会創業者、二宮荘吉氏 2

◆二宮荘吉氏は明治38(1906)年生まれで、昭和20年に独立した時には「もう40歳になっていただろう」と、二男でニノミヤ前社長の二宮祥晃氏(昭和16年生まれ)は言っています。

 独立してすぐ、仕入先など得意先がたさんあった大阪市西成区松田町に事務所を構えました。祥晃氏は、阪堺電車・北天下茶屋駅の近くにある天下茶屋小学校に入学して、日本橋に移転した後もそこへ通い、卒業しています。

 日本橋での開業は今のニノミヤ日本橋本店があるところでした。
 まもなくして左隣の下駄屋さんが店を閉めるというので買収して店舗を大きくしました。

 その頃は日本橋もまだ電器店が少なく、いろんな業種が軒を並べていました。下駄屋さんもその1店で、右隣には楽器屋(中井楽器)さんがあったといいます。
 後にそこも買い取って間口を広げています。

◆商売は順調でしたが、決して不得意なものへは手を出そうとはしませんでした。
 独立してしばらくすると、経営不振の部品メーカーが「会社を買い取ってほしい」と、売却話を持ち込んできたことがありました。

 荘吉氏は「わしは物を作るのはあかん」と言って、即座に断ったといいます。
 それにはかつての苦い経験があったからでした。

 岡山で中川章輔商会に入社した壮吉氏は、大阪・日本橋へ転勤する前には転勤に次ぐ転勤で、東京勤務も3年ほど経験しています。

 家族と一緒に転勤した先は、東京・港区にあった中川章輔商会が経営する軍需工場でした。そこの工場長を任されたのです。

 そこで出来てくるものといえば出来損ないの品が多くて、よく「もっとちゃんとした物を作らなあかんで」と、工員たちへ文句を言っていたといいます。
 そうすると工員も黙っておらず、「そんなに言うのなら、あんた作ってみい」と、逆に怒鳴られる始末。

 一筋縄ではいかない工場運営でした。
 売るのには長けていても、物を作ることはなかなかうまくいかなかったようです。
 この時の東京での体験に懲りたのでしょう、以来、不得意なこと、とりわけ物を作ることには興味を示さなくなったといいます。
by sozakiweb | 2007-02-20 13:14 | 電気街を作った男たち