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日本橋電気街に関連したニュースをお伝えする情報サイトです。 「日本橋( NIPPONBASHI )経済新聞」は 略して”バシ経”。


by sozakiweb
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軍の放出品で大繁盛 電気街を作った男たち 1 正電社 伊東雅男会長 3

 わずか6坪のバラック小屋を建てて商売を始めたものの店には並べる商品もろくすっぽなかった。屋根はトントンと言って瓦を使わずにベニヤ板を貼りあわせただけのものだった。そんなものでも3年や5年はもったといいます。昭和21年12月でした。

 店で売ったのは軍隊の放出品でした。旧日本軍が使っていた通信機などの品物を当時の通産省が管理していました。幸いにも伊東氏の恩師で、戦後、通産省の職員になっていた人がいました。

 その恩師にお願いして奈良・香芝町にあった放出品の保管所へ、当時、出てきたばかりの蒸気で走る木炭自動車を借りて出向いたそうです。その頃は運搬に使われていたのは荷車か牛車が一般的で、自動車などはガソリン自動車などは手に入る時代ではなかったのでした。

 保管所は軍隊が使っていた小さな飛行場の跡を利用したものでした。ところが行ってみると管理する人がいないため、近所の人たちがほとんどのの品物を持ち帰った後だったといいます。
 「持ち帰った品物は近くのラジオ屋へ売っていたようなんです。それを買いに行きました。大阪でも南海電車の新今宮駅の高架下に倉庫があって、そこにも放出品がたくさん保管されていました。そこで真空管をずいぶんとたくさん買ったことがありました」(伊東氏)

 誰もがそれぞれつてを頼っては放出品などを買ってきて、それを分解して部品を販売していました。通信機には薄い白金を使った接点が用いられており、それをはずして売っただけでもかなりの金額になったといいます。

 今の電器店からは考えられない商売の仕方ですが、そうした部品を買いに来る人たちもいたから結構な商売になったのです。それほど当時は物がなかったのです。

 「戦時中はラジオがすべての情報源でした。空襲警報などラジオがなければ聞くことができません。ですからラジオは必需品でした。ところが一端故障すると、部品がないために修理ができませんでした」

 戦後になって地域のラジオ屋さんへは、どっと故障したラジオの修理を求める人たちが詰め掛けました。それを修理するには部品が必要ですから、伊東氏の店などラジオ部品を販売する店は大繁盛するのです。

 日本橋電気街も例外ではありませんでした。各地からラジオ屋さんや一般の人たちが集まってきたのです。これが電気街を形作る原動力となっていくのでした。
by sozakiweb | 2004-06-19 11:30 | 電気街を作った男たち