日本橋電気街に関連したニュースをお伝えする情報サイトです。 「日本橋( NIPPONBASHI )経済新聞」は 略して”バシ経”。


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日本橋は桧舞台 電気街を作った男たち 1 正電社 伊東雅男会長 2

 昭和23年、日本橋地区などにあった電器店40店が集まって親睦組織「南大阪電友会」(現でんでんタウン協栄会の前身)が発足しています。初代会長は水野辰雄氏(当時、日本無線総合会社)でした。業界内を奔走して作り上げたと言われています。

 水野氏の日本無線総合会社(後に水野商店)は、その頃、道頓堀に店を構えていましたが、後に日本橋筋に移転します。いわゆる周辺地域からの移転グループです。

 水野氏から発足の相談を持ちかけられた一人、中川章輔商会の中川昌蔵氏は、当時、電気街のリーダー役として見られていたといいます。価格問題への対応など、街のルールを作ったのも中川氏だったのです。

 中川章輔商会の中川寛、昌蔵、彰の3兄弟は、その2年前に中国から引き揚げきたところで、同社の再興に努めていました。

 正電社会長の伊東雅男氏は次のように話しています。

 「日本橋は、この南大阪電友会発足を契機に電気の街として結束していくことになります。その後、電化元年と言われる昭和29年、その後の3C時代を経て、東京オリンピックへと電気街は、さらに元気付いていきました」

 「その間にトランジスターやダイオードなどができ、ソニーが小型のラジオを発売するなど、新製品が相次ぎます。メーカーはこぞって日本橋へそうした製品を持ってきました。ここで売るとお客さんが集まってくるからです」

 「こうしたことの繰り返しで、それからしばらく順調に推移し、電気街・日本橋の知名度も高まっていきました。40~45年頃が一番のピークだったでしょうね。しかし40年代後半からオイルショックが起こり景気は悪化していきます」

■電気屋なら日本橋やで

 伊東氏は、22歳で中国北部から復員してきました。日本橋5丁目で商売を始める以前、まず友人とふたりで大阪・南田辺で狭い店を借り、ラジオの修理を始めまています。

 その近くに小さな工場を経営する大牧さんという人が住んでいました。その方は中川章輔商会などへ納入しており電気業界とはかかわりが深かったこともあって「良く話を聞きに行った」そうです。

 「伊東さん、電気屋をやるんやったらやっぱり日本橋でやんなはれや。あそこは桧舞台でっせ」と、大牧さんはいつも伊東氏に、そう言って日本橋へ進出することを勧めてくれたのです。

 その言葉に突き動かされて日本橋で空き地探しが始まります。
 やっと見付けたのが坪単価5円の土地。今、瀬川電器がある場所の少し南の堺筋に面した所でした。間口2間半のうなぎの寝床のような土地を50坪借りています。

 ここが伊東さんの日本橋デビューの舞台となったのです。
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by sozakiweb | 2004-06-19 11:29 | 電気街を作った男たち