日本橋電気街に関連したニュースをお伝えする情報サイトです。 「日本橋( NIPPONBASHI )経済新聞」は 略して”バシ経”。


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 伊東氏が太刀打ちできなかったという二宮無線電機商会は、昭和20年8月に日本橋に店舗を開いています。それから半年ほど遅れて21年2月、伊東氏は大阪・南田辺で商売を始めています。その年の12月には日本橋に店を構えました。「22年頃になると自分たちでも商うことができる商品は揃うようになってきました」といいます。

 「私が店を出したのは日本橋では6店か7店目でしたわ。大南産業という会社がありました。ここは今は松下電器産業の代理店になっているはずですわ。山電さんもありましたなぁ。弘和電気さんは日本橋5丁目で商売してはりました」

 その頃の日本橋は、空襲によって焼けたり強制疎開で建物はほとんどなかったようです。当時すでにあった高島屋東別館の建物は、南側の壁面にはたくさんの銃痕が残っていたといいます。建物の持ち主はまだ松坂屋でしたが、戦後4、5年のうちに修復したそうです。しかしそれまでは「無数の穴があいてました」と伊東氏。

 それは米軍の戦闘機グラマンF6Fが、屋上にあった日本軍の高射砲陣地をねらった機銃掃射によるものだったといいます。
 その建物が建ったのは昭和5~7年だったそうです。松坂屋は大正13年に大阪・日本橋へ進出しましたが、建物の大きさは今の3分の1程度だったといいます。この頃には大阪の街にデパートが相次いでオープンしたといいます。

 「天王寺の近鉄百貨店もその頃にできましたんや。小学校5、6年の頃やったかな、よく覚えてますわ。松坂屋へはおばさんと一緒に来て、食堂でぜんざいを食べて帰ったことがあります」

 伊東氏は子供の頃から大阪・西田辺に住んでいましたが、日本橋にはしばしば足を運んでいたようです。

 下駄屋さん、洋服屋さん、古着屋さんがあったそうですが、電器屋さんは一軒もありませんでした。本屋さんも新本、古本屋さんがたくさん入り混じって並んでいたそうです。中学生になると伊東氏は一人でそのうちの一店である「杉山書店」に通っています。いろんな本がありましたが、お目当ては”虎の巻”でした。
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# by sozakiweb | 2004-06-26 16:15 | 電気街を作った男たち
  1945(昭和20)年8月15日の昭和天皇による「終戦詔書」の玉音放送は、国内だけでなく、海外に向けても行われ中国、満州、南方諸地域の将兵や邦人にも終戦詔書は伝えられたそうです。また詔書は、20数カ国語に翻訳して、8月15日以後も放送されたと言われています。

 伊東氏もまた15日に北京の城壁近くで放送を聞いています。しかし放送は聞き取りにくかったようです。
 「ガーガーと言っているばっかりで意味がわからへんのですわ。復員の云々と言うけれど、天皇陛下はもっとやれいうとるのとちゃうか、と仲間と話していました」

 夕方になると部隊本部から連絡が来たそうです。「機材はすべて壊せと通達を受けて初めて戦争が終わったことがわかったんです」

 アンテナはロープをかけて引き倒すなど、その日のうちに機材は壊して土の中に埋めたそうです。

 そうした経験を経て伊東氏は、大阪・日本橋で軍隊の放出品で商売を始めることになります。
 最初でこそ売る品物はなかったのですが、1年も経たないうちに国内で生産が始まってきました。それでも簡単に生産できるものが多く、たとえばシャーシ、ダイヤルや大阪音響が発売した電蓄のモーターであるフォノモーター、ピックアップなどでした。それからしばらくすると真空管も市場に出てくるようになったといいます。

 こうした品物に詳しかったのは1945(昭和20)年8月頃から日本橋で商売を始めていた二宮無線電機商会の先代だったそうです。

 「私ら素人ですからわかりませんが、長い間、中川章輔商会で番頭を務めてた人ですから、あの商品はあそこへ仕入れに行ったらいい、といったことも良く知っておられて、かたっぱしから押さえていかれましたね」

 「全部うちが買うから、他所へ出すな、というわけですわ」
 当時のラジオ店や部品店は規模が小さいため太刀打ちできなかったといいます。
 伊東氏も売ってくれと頼みに行っても一向に相手にしてもらえなかったそうです。
 せっかく商品が出回ってきたのに、相変わらず売る品物は手に入り辛かったようです。
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# by sozakiweb | 2004-06-26 16:12 | 電気街を作った男たち
 伊東氏は日本橋でラジオ部品店を始める前、兵役で中国・北京にいました。終戦も北京で迎えています。宿営は城壁の近くにあったといいます。

 戦前、電器業界に入った多くの人は戦争を体験しており、そこで電機技術を身に付けたという人も少なくありません。伊東氏もそうしたひとりでした。

 静岡県磐田市の今は静岡大学の農学部になっていますが、そこにあった第一航空情報連隊へ入隊しています。当時としては一番新しい兵科だったといいます。そこで伊東氏はラジオロケータ(電波警戒機)を担当していました。

 ラジオロケータは、太平洋戦争緒戦のシンガポール攻略戦で、イギリス軍から捕獲し、日本で解体して作ったものでした。
 「私たちはそれを研究して分解したり、組み立てて日本製のラジオロケータを作り上げました。福岡経由で韓国へ送り、満鉄の貨車で北京まで持っていったのです」

 北京の城壁の上にそのラジオロケータを設置したといいます。20mほどのアンテナを立て、セルモーターでアンテナを回して超短波を発射、敵の飛行機の金属に当たって返ってくる反射波をつかみ、敵機が近づいてきたことをつかんでいました。

 「補足した映像が大きければ”映像大”といった具合に、敵機が近いと連絡するのですが、今のレーダーと違って相手の機種も何もわからず、ただ何かが飛んどるぞぐらや。
 しかし前の日には味方の飛行場から、味方の飛行機の飛行予定と空路を知らせてくれていたので、それ以外のものは敵と判断していました」

 反射波を分析して味方の飛行場に1~2分間隔で連絡するのですが、味方はなんとも頼りなかったそうです。

 「敵機を発見して味方に連絡しても、味方の飛行機は”疎開”してしまってるんですわ。応戦どころではありませんよ」

 8月15日、終戦。その10日前に伊東氏は蒙古への転属命令を受け取っていた。しかしその頃には、北京のあちこちに「日本の軍閥が負けた」という張り紙があったといいます。

 「ですからこれはあかんとわかっていましたが、終戦がもう1週間でも遅ければ、シベリア送りになるところでした。終戦が早かったので助かったんですが」

 このときシベリアへ行っていたら、この「電気街をつくった男たち」の連載も実現していなかったかもしれません。
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# by sozakiweb | 2004-06-19 11:32 | 電気街を作った男たち
 わずか6坪のバラック小屋を建てて商売を始めたものの店には並べる商品もろくすっぽなかった。屋根はトントンと言って瓦を使わずにベニヤ板を貼りあわせただけのものだった。そんなものでも3年や5年はもったといいます。昭和21年12月でした。

 店で売ったのは軍隊の放出品でした。旧日本軍が使っていた通信機などの品物を当時の通産省が管理していました。幸いにも伊東氏の恩師で、戦後、通産省の職員になっていた人がいました。

 その恩師にお願いして奈良・香芝町にあった放出品の保管所へ、当時、出てきたばかりの蒸気で走る木炭自動車を借りて出向いたそうです。その頃は運搬に使われていたのは荷車か牛車が一般的で、自動車などはガソリン自動車などは手に入る時代ではなかったのでした。

 保管所は軍隊が使っていた小さな飛行場の跡を利用したものでした。ところが行ってみると管理する人がいないため、近所の人たちがほとんどのの品物を持ち帰った後だったといいます。
 「持ち帰った品物は近くのラジオ屋へ売っていたようなんです。それを買いに行きました。大阪でも南海電車の新今宮駅の高架下に倉庫があって、そこにも放出品がたくさん保管されていました。そこで真空管をずいぶんとたくさん買ったことがありました」(伊東氏)

 誰もがそれぞれつてを頼っては放出品などを買ってきて、それを分解して部品を販売していました。通信機には薄い白金を使った接点が用いられており、それをはずして売っただけでもかなりの金額になったといいます。

 今の電器店からは考えられない商売の仕方ですが、そうした部品を買いに来る人たちもいたから結構な商売になったのです。それほど当時は物がなかったのです。

 「戦時中はラジオがすべての情報源でした。空襲警報などラジオがなければ聞くことができません。ですからラジオは必需品でした。ところが一端故障すると、部品がないために修理ができませんでした」

 戦後になって地域のラジオ屋さんへは、どっと故障したラジオの修理を求める人たちが詰め掛けました。それを修理するには部品が必要ですから、伊東氏の店などラジオ部品を販売する店は大繁盛するのです。

 日本橋電気街も例外ではありませんでした。各地からラジオ屋さんや一般の人たちが集まってきたのです。これが電気街を形作る原動力となっていくのでした。
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# by sozakiweb | 2004-06-19 11:30 | 電気街を作った男たち
 昭和23年、日本橋地区などにあった電器店40店が集まって親睦組織「南大阪電友会」(現でんでんタウン協栄会の前身)が発足しています。初代会長は水野辰雄氏(当時、日本無線総合会社)でした。業界内を奔走して作り上げたと言われています。

 水野氏の日本無線総合会社(後に水野商店)は、その頃、道頓堀に店を構えていましたが、後に日本橋筋に移転します。いわゆる周辺地域からの移転グループです。

 水野氏から発足の相談を持ちかけられた一人、中川章輔商会の中川昌蔵氏は、当時、電気街のリーダー役として見られていたといいます。価格問題への対応など、街のルールを作ったのも中川氏だったのです。

 中川章輔商会の中川寛、昌蔵、彰の3兄弟は、その2年前に中国から引き揚げきたところで、同社の再興に努めていました。

 正電社会長の伊東雅男氏は次のように話しています。

 「日本橋は、この南大阪電友会発足を契機に電気の街として結束していくことになります。その後、電化元年と言われる昭和29年、その後の3C時代を経て、東京オリンピックへと電気街は、さらに元気付いていきました」

 「その間にトランジスターやダイオードなどができ、ソニーが小型のラジオを発売するなど、新製品が相次ぎます。メーカーはこぞって日本橋へそうした製品を持ってきました。ここで売るとお客さんが集まってくるからです」

 「こうしたことの繰り返しで、それからしばらく順調に推移し、電気街・日本橋の知名度も高まっていきました。40~45年頃が一番のピークだったでしょうね。しかし40年代後半からオイルショックが起こり景気は悪化していきます」

■電気屋なら日本橋やで

 伊東氏は、22歳で中国北部から復員してきました。日本橋5丁目で商売を始める以前、まず友人とふたりで大阪・南田辺で狭い店を借り、ラジオの修理を始めまています。

 その近くに小さな工場を経営する大牧さんという人が住んでいました。その方は中川章輔商会などへ納入しており電気業界とはかかわりが深かったこともあって「良く話を聞きに行った」そうです。

 「伊東さん、電気屋をやるんやったらやっぱり日本橋でやんなはれや。あそこは桧舞台でっせ」と、大牧さんはいつも伊東氏に、そう言って日本橋へ進出することを勧めてくれたのです。

 その言葉に突き動かされて日本橋で空き地探しが始まります。
 やっと見付けたのが坪単価5円の土地。今、瀬川電器がある場所の少し南の堺筋に面した所でした。間口2間半のうなぎの寝床のような土地を50坪借りています。

 ここが伊東さんの日本橋デビューの舞台となったのです。
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# by sozakiweb | 2004-06-19 11:29 | 電気街を作った男たち
 変貌する大阪・日本橋の電気街「でんでんタウン」。  その街で照明専門店「正電社」を創業した伊東雅男会長は、敗戦後、中国北部から復員してきたばかりの昭和21年、ここで商売を始めています。

 伊東氏の話に入る前に、少しばかり日本橋電気街の生い立ちに触れておきます。  日本橋電気街の萌芽はすでに戦前に見られます。その種を蒔いたのは現在の中川無線電機、当時は中川章輔商会でしたが、同社だったと言います。

 同社は戦前はイタリア、マルコニー社からラジオの輸入を行っており、戦後はラジオ機器と部品の卸、小売販売を行っていました。

 中川章輔商会は最初、大阪・玉造で電気製品以外の商品を商っていましたが、大正14年、大阪で今のNHK(当時は大阪放送局=JOBK)が放送を始めたのきっかけに、日本橋に店舗を移転し、ラジオ関連の商品などを扱い始めたといいます。あちこちの小さな工場の商品を集めて「ダラー」という商品名で売っていたそうです。

 これが大阪・日本橋電気街発生の大きな原動力となって、戦後、徐々に電器店が集まることになっていっていきました。

 そのひとつに1945年、日本橋4丁目で二間半間口の狭い店舗で開業した部品の卸商・二宮無線電機商会(現ニノミヤ)がありました。  同社は中川章輔商会の後を追う形で業容を拡大していきます。  それを見ていた周りの人たちは「電気屋とはえらい儲かる商売なんやなあ」と思うようになったようで、商売換えする者も増えていったといいます。中には他 地区で電器店を営んでいた人たちも、日本橋へ移り住むようになっていきます。

 伊東さんは「日本橋電気街のスタートを築いた人たちには三つのグループがありました」と話しています。

 そのひとつは「もともと戦前から日本橋で営業していた人たち」です。日本橋筋には6、7軒の電器店が戦前からあったといいます。 二つ目は「近くから移転してきた人たち」です。電器店に乗り換えた人たちもありました。下駄屋さんや鞄・靴屋さんから転業した人もいました。 三つ目は「東京や地方から進出してきた人たち」でした。  この三つのグループが日本橋電気街を形作っていくことになります。
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# by sozakiweb | 2004-06-19 11:27 | 電気街を作った男たち