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カテゴリ:電気街を作った男たち( 16 )

2007年2月18日から2月27日まで連載しました「電気街を作った男たち 二宮無線電機商会創業者二宮荘吉氏」の続編をお届けします。


◆創業者の二宮荘吉は、昭和46(1971)年、自動車事故で66歳で亡くなっている。出社前に保養所物件を下見に伊勢へ向かう途中の出来事だった。店舗は本店のほか「枚岡(出張所)」「えびす」「京都・寺町」「枚方」「高槻」「布施」「庄内」「香里園」の9店舗に増えていた。
 当時27歳だった松島秀夫(現63歳)は、地方担当社員として徳島の得意先へ出張中だった。事故を知って急きょ出張を中断し、大阪へ戻ったという。
 入社当初から荘吉の薫陶を受けていただけに、大阪へ帰る船中ではいろんな思い出が蘇ってきた。(敬称略)


◆松島は商業高校を卒業後すぐ、昭和37年に二宮無線電機商会に入社している。
 1ヶ月は店の雑用係りだったが、その後外商を担当している。商業高校出身ということもあって、直流交流はもちろん電気のことについてはまったくわからなかった。
 「それでも、1人で外へ出されました」

 外商社員の松島の仕事は得意先の会社を昼休みに訪問して電化製品の展示販売をすることだった。東洋ゴムやヤンマーディーゼルなど一流企業もたくさんあった。軽三輪車に扇風機や炊飯器、ラジオなどの電化製品ををいっぱい積んで、毎日会社訪問の繰り返しだったという。

 「午前11時20分ぐらいに現地に着いて、長い台をふたつかみっつ並べて、そこへ商品を置いて売るんです。購入者は給料から天引きで、労働組合からお金が入ってきていました」

 まだ家電品は普及していない頃だった。携帯ラジオが何十台って売れたし、軽三輪車いっぱいに積んだ30cm幅の扇風機が全部売れたこともあった。扇風機1台1万円程度だったという。松島は給料8400円で入社している。
 売ったら自分で配達していた。売れるのは楽しいが、売れるほど仕事が増えた。

◆その頃の社長の思い出を松島は話している。

 「労働組合の強い会社は外商部門でよく買ってくれていました。そんな会社を年に1、2回、食事に招待することがありました。そんな席に社長は入社したての若造にもかかわらず、その席にも連れて行ってもらいました」
 若くても外商担当者として認められたということに松島は喜んだ。これが仕事の奮起につながったことは言うまでもない。

 「展示会が終わって夜遅く店に帰ってくると、社長は必ず検品のために店の上にあった自宅から降りてくるんです。店を出る前に持っていく商品を記した商品伝票と、持ち帰った商品との照合をします。社員が不正をするのを防ぐためでもあったのですが、そうした細かなところまで厳しかったですね」

 やはり店の上にあった寮の部屋に戻っていると社長から声がかかった。
 「晩御飯を食べろと言って家に呼んでくれるんです。社長の家にはその頃すでに電子レンジがあり、それで酒を燗して出してくれました」

◆外商担当者はは6、7人いた。それ以外に地方担当者がいた。
 「地方担当は特別な存在で、キャリアがあって販売実績がある人たちが担当していました」 
 松島も「外商を経験して早く地方担当になるのが夢でした」と話している。

 地方部門が販売するのは部品とオーディオ機器などが主力だった。60Hz地域をエリアに出張の連続で、得意先の中には山間部にあるところもあり、それは大変な仕事だったという。
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by sozakiweb | 2007-04-15 13:36 | 電気街を作った男たち
◆創業して19年が経った昭和39年、二宮無線電機商会の土台は確立していた。しかし世の中は東京オリンピックが終わって不況の風が吹いた。
 
二宮無線電機商会の原点は部品販売にあると言われたが稼ぎ頭だった。部品と家電、オーディオの二宮無線の3本柱は、景気が悪くてもどれかが売れていたという強さを発揮していた。だから景気が悪い時ほど荘吉氏は喜んでいたという。

 しかし二男の二宮祥晃氏には「どこへも行かないですぐに店に入れ」と言った。本人も学校を卒業すると二宮無線電機商会へ入社するものと思っていたというから、「親父の意思に任せた」という。
 ちょうど荘吉氏が社員に100億円達成の大号令をかけていた時だ。100億突破は40年頃で、それから次の200億円への到達は早かったという。

◆祥晃氏とは5歳年上の長男二宮庸光氏は、昭和35年に大学卒業した後、2年間、取引先の部品メーカー、アルプス電気で修業している。37年にはそこを退職して二宮無線に入社した。
 当時、荘吉氏から薫陶を受けた従業員の多くは「優しい人だった。悪い人間が嫌いだった」と言う。また悪くならないように、と社員教育には徹底していた。

 そんな荘吉氏だが、昭和46年に自動車事故で66歳で亡くなっている。あまりにも突然のことであった。
 やり残したことは多かったのではないかと思われる。


■連載は今回で一旦終わりますが、後日、続編をお届けしたい思います。
 お読みいただきありがとうございました。
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by sozakiweb | 2007-02-27 19:26 | 電気街を作った男たち
◆東京オリンピック前後はまだ、大阪・堺筋の日本橋電気街には市電が走っていた。しかし道幅は狭かったし、周囲は木造2階建ての建物ばかりだったという。
 近隣で大きな建物と言えば松坂屋(現在は高島屋別館)と久保田鉄工(現クボタ)ぐらいだった。そんな中で4階建ての二宮無線電機商会の建物は、電気街で一際目立っていた。

 戦後、荘吉氏に部品販売を譲って撤退していた中川無線電機(旧中川章輔商会)を、すでにこの時、建物の規模では抜いていた。

 しかし親のような存在だった中川無線電機を見る目は長く特別なものがあった。
 二宮祥晃氏も「親父が世話になった会社という気持ちがずっとあった」と話している。また従業員たちも同じだったようで、「他の量販店とは激しい競争をしても、中川さんとは別でした」という。

 しばらくすると荘吉氏は電気製品の卸販売をやめ、小売に徹する決断をした。家電ブームの勢いに乗って売上げの拡大をはかろうとしたのと、卸は利益が少ないと判断したからだった。しかし、部品は引き続いて卸と小売の2本立てを続けた。
 テレビ、扇風機、炊飯器が良く売れた時代だった。

◆その頃、給料は25日、その日が日曜日だったら26日が支給日だった。年末のボーナスは大晦日の営業がすべて終わってから支給されていた。

 大晦日に遅くまで働くとボーナスとは別に3000円が支給されていた。田舎に帰省する従業員は、土産も新しい下着も買わなければならなかったから有難かった。
 しかしそのような深夜になっては汽車も動いておらず、元旦の朝に寮を出て大阪駅へ行って切符を買わなければならなかった。

 それでは可哀想と荘吉氏はバスを貸し切って、鳥取や島根に帰る従業員のために帰省バスを仕立てたという。夜11時頃、店の前を出発するのが大晦日の恒例であった。
 荘吉氏は1年間一緒に働いてくれた彼らを労うために、バスには酒とみかんをいっぱい積んでやった。しかしバスに乗ると3000円はもらえなかったという。
 山陰地方出身の従業員が少なくなっていくと、この帰省バスも自然と取りやめになっていった。

◆このように戦前の商店の様相を色濃く残していたわけだが、従業員に接する荘吉氏には厳しさの反面優しさもあった。
 社員の仲人もよくやった。結婚式では早くから式場で花婿花嫁を出迎えるのが常だったようだ。

 ある従業員が新婚旅行から帰って夫人を連れて社長に挨拶に来た時だった。その前日、従業員が担当していた富山の得意先が倒産していた。慌てた従業員は夫人を置いてすぐに得意先へ走ったが、荘吉氏は「新しい得意先をまた作ったらいい」と従業員を励ましてくれたという。
 「そんな社長だったから得意先もついて来た」という。

 茶目っ気もあった。
 休みの日に荘吉氏が店に出ていて電話かかってくると「小遣いなんでわかりません」と言って、周りのものを笑わせていたという。
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by sozakiweb | 2007-02-26 16:49 | 電気街を作った男たち
◆昭和37年、二宮無線電機商会の従業員は60、70人に増えていました。通勤者はわずか10数人で、ほとんどが本店の中にあった寮で生活していました。
 店は1階と2階の一部(後に1、2階はすべて売り場になりました)で、3階が社長の住まいと食堂、そして4階に寮がありました。

 それとは別に女子寮も持っていました。今の高島屋別館の近くにあった子会社の二宮産業の建物の中で、倉庫を兼ねていました。
 こうした施設を整えたのも、従業員を確保するためで、荘吉氏が山陰地方など地方出身者への便宜をはかたものでした。

 地方のお客は夜行で日本橋へやって来て、部品を仕入れてその日のうちにまた汽車で帰っていきます。送料がもったいないので、大半は仕入れた部品は抱えて持ち帰っていたようです。

 近くのお客へは配達もしました。
 配達など営業はもっぱら自転車の時代でした。
 まだ自動車は4輪車が1台、マツダのオート三輪車が数台あった程度でした。
 「西宮や尼崎までよくいきました。トランスを積んで売りに行くこともありました」と、当時を知る従業員は話しています。

 これは二宮無線電機の商売の原点で、その頃のお客は最近まで取引がありました。

◆荘吉氏はとにかくよく働く人でした。
 身長は160cm程度と、決して高くない荘吉氏でしたが、よく首にタオルを巻き、運動靴姿で店内の階段を飛ぶように駆け上がっていたといいます。

 ある夜、枚岡店で泥棒騒動がありました。
 3階で寝ていた荘吉氏が警察から電話連絡を受けると、4階の寮にいた従業員に「おい、枚岡店に泥棒や。すぐいくで」と非常召集をかけました。

 本来なら着の身着のままで駆けつけなければいけないものを、当時18歳だった前出の従業員は、のんびりといつも通りに歯磨きを始めました。
 それを見た荘吉氏は「こんな時に何をしとんや、すぐいくで」と怒鳴って、枚岡まで走ったといいます。

 仕事にも厳しい人でした。
 従業員が商品を梱包してある紐をハサミで切ろうものなら「こら、そんなもったいないことしたらあかん」と、よく叱ったといいます。
 再び使えるように、結び目をほどけというのです。

 仕入れた商品は木箱に入って店に届きました。それは釘で打ちつけてあります。
 梱包を解くには釘を抜かなければいけませんが、どうしても曲がってしまいます。曲がった釘はたたいて元のように伸ばしてまた使うのです。
 もちろん木箱も再び発送に使います。

 叱られ続けた従業員も後年店長を任されて、「社員を指導する時、いつも荘吉氏の顔が浮かんできました」と、話しています。
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by sozakiweb | 2007-02-23 19:34 | 電気街を作った男たち
◆テレビのオリジナルキット「ナルダン」は、シャーシとブラウン管、キャビネットなどがセットになっていたもので、配線はされてないので、買ったお客が組み立てるというものでした。
 荘吉氏のアイデアで、部品メーカーから仕入れた部品を寄せ集めて作りました。物づくりには手を出さないと言っていましたが、これには商機を見出したのでしょう。
 日本橋でも同じようなテレビキットはいくつかありました。

 このナルダンを販売していたという昭和37年入社の元従業員は、その頃の給料が8400円だったといいます。テレビ受像機は5、6万円で販売していました。到底買える代物ではなかったといいます。
 そんな時に荘吉氏は低価格なキットを用意したのです。
 前の従業員によると、「ラジオキットは3000円、テレビキットは2、3万円で買えたはずです」と話しています。

 安いから、競合商品がたくさんあっても、どこの店でもキットはすぐ売れました。
 地方のお店が日本橋でラジオキットやテレビキットを仕入れて、自分の店に持ち帰って売ったのです。それがまた良く売れた時代でした。
 商品があると売れた時代でしたから、従業員も毎日、自転車で集金や仕入れに走り回っていました。

 店も夜遅くまで開けていましたし、今と違って遅くまで店はお客で賑わっていました。とりわけ大晦日は格別で、NHKの紅白歌合戦が終わる頃に店を閉めるほど忙しかったようです。
 陣頭指揮にあたっていた荘吉氏も、なんでこんなに売れるんや-と思うぐらいに良く売れました。今からすると隔世の感です。
 今は日本橋でも正月も営業するようになっていますが、当時は正月は4、5日は休むのが当たり前でした。ある年に1週間休みましたが、さすがに荘吉氏は「これは休みすぎ」と、反省していたといいます。

◆昭和20年代、二宮無線電機商会の店舗は本店1店舗だけでしたが、日本橋電気街で最も大店だったといいます。
 昭和38年になると今の東大阪市枚岡にあった「枚岡トップセンター」という市場に出店しています。これが初めての支店でした。

 東大阪市枚岡界隈には当時から釘とか鉄線を作る工場が多くありました。そういう工場を相手に商売する専門店が集まって、組合「大阪特販」を作り、近隣の工場での職域販売をしていました。
 荘吉氏もその組合に加入していました。職域販売は当初、本店が担当していました。その頃はすでに電気製品まで扱い商品を拡大し、良く売れていました。
 そんな順調ぶりを見た組合の役員の方から「出店したらどうか」と勧められたこともあって、出店を決めたのでした。

 翌年大学を卒業したニ男の二宮祥晃氏(前ニノミヤ社長)は、すぐにその枚岡店に研修に派遣されています。
 それまでは店の手伝いは避けて本ばかり読んでいたという祥晃氏でしたが、これが業界への第1歩になりました。

 日本橋では39年に、「えびす店」(旧エレホビー店)を日本橋5丁目に出店しています。日本橋での2店舗目です。
 えびす店がオープンする直前に得意先を招待して歌謡ショーを開いています。店の2階に御座を敷いだけの会場に、2代目コロムビアローズと島倉千代子らの歌手がやって来ました。

 その頃、日本コロムビアの代理店だった二宮無線は、日本橋をはじめ多くの電器店へコロムビア製品を卸販売していました。そんな関係からコロムビアの歌手を呼んだのでした。
 招待歌手としてコロムビアローズは不動でしたが、あとは村田英雄か島倉かで、社内は最後まで揉めたそうです。
 しかし荘吉氏の「男よりも女のほうがええやろ」と一言で、島倉に決まったといいます。

 日本は東京オリンピック開催を控え、経済は好景気に沸き、そして業界は家電ブームへと走り始める直前でした。
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by sozakiweb | 2007-02-22 18:47 | 電気街を作った男たち
◆昭和20年代の電気街は「商品を集めると売れた」という時代だったといいます。中川章輔商会時代の経験から仕入先も十分に熟知していた荘吉氏は、「上手に商品を集めた」と言われています。
 これは店を拡大させる基盤を築いていきました。

 店も日本各地からやって来るお客で賑わっていました。
 慌しく動き回る従業員は店先のカウンターでお客から注文書をもらい、奥にある倉庫の商品棚へ走って商品を揃えます。結構商品の幅広かったというから、大変な作業でした。
 従業員は50人程度に増えていました。店の中はお客と応対する声やら、商品を探す呼び声などで店内は活気にあふれていました。

 荘吉氏にとって従業員たちは家族と同じでした。
 食事をする時にも荘吉氏たち家族と従業員は一緒だった。
 従業員も全国から集まっていましたから、東北出身者も2人いました。
 当時まだ小学生だった二宮祥晃氏(前ニノミヤ社長)は、「彼らが白いごはんに醤油をかけて食べていたのにはびっくりしました」という具合に、店の中はいろんな文化が入り混じっていました。

◆店では地方からのお客も増えていましたが、そうした人たちたちから「掛売りをしてほしい」と要望が出てきていました。それに応えるように掛け販売をはじめ、集金に地方へ社員がでかけるようになりました。集金だけではなく、同時にお客の開拓もして歩きます。
 東は静岡、西は九州といった具合に、徐々に範囲は広がっていきます。

 地方回りでは荘吉氏は自ら、従業員を集めるために各地の学校を訪ね歩いています。
 東北はもちろんのこと山陰地方にもよく足を運んだといいます。
 中でも世話になったのが出雲地方の顔役でした。あちこちの学校を紹介してもらい、一緒に学校まで足を運んで生徒を寄越してほしいと頼んで歩いたのです。

 二宮無線電機商会に出雲出身者が多かったというのは、こうしたことがあったからでした。
 「島根や鳥取など日本海側の人は、口は達者じゃないけれど粘り強い。よく商売に頑張ってくれる」
 荘吉氏は事あるごとにそう話していたといいます。

◆しばらくしてテレビ放送が始まります。テレビの中では力道山が活躍していました。
 そうしたブームに乗って荘吉氏は、組立て式の「ナルダン」というオリジナルテレビキットの販売を始めます。
 同じ日本橋では、少し遅れてシマムセンも「シマキット」というオリジナルテレビキットの販売を始める。
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by sozakiweb | 2007-02-21 09:09 | 電気街を作った男たち
◆二宮荘吉氏は明治38(1906)年生まれで、昭和20年に独立した時には「もう40歳になっていただろう」と、二男でニノミヤ前社長の二宮祥晃氏(昭和16年生まれ)は言っています。

 独立してすぐ、仕入先など得意先がたさんあった大阪市西成区松田町に事務所を構えました。祥晃氏は、阪堺電車・北天下茶屋駅の近くにある天下茶屋小学校に入学して、日本橋に移転した後もそこへ通い、卒業しています。

 日本橋での開業は今のニノミヤ日本橋本店があるところでした。
 まもなくして左隣の下駄屋さんが店を閉めるというので買収して店舗を大きくしました。

 その頃は日本橋もまだ電器店が少なく、いろんな業種が軒を並べていました。下駄屋さんもその1店で、右隣には楽器屋(中井楽器)さんがあったといいます。
 後にそこも買い取って間口を広げています。

◆商売は順調でしたが、決して不得意なものへは手を出そうとはしませんでした。
 独立してしばらくすると、経営不振の部品メーカーが「会社を買い取ってほしい」と、売却話を持ち込んできたことがありました。

 荘吉氏は「わしは物を作るのはあかん」と言って、即座に断ったといいます。
 それにはかつての苦い経験があったからでした。

 岡山で中川章輔商会に入社した壮吉氏は、大阪・日本橋へ転勤する前には転勤に次ぐ転勤で、東京勤務も3年ほど経験しています。

 家族と一緒に転勤した先は、東京・港区にあった中川章輔商会が経営する軍需工場でした。そこの工場長を任されたのです。

 そこで出来てくるものといえば出来損ないの品が多くて、よく「もっとちゃんとした物を作らなあかんで」と、工員たちへ文句を言っていたといいます。
 そうすると工員も黙っておらず、「そんなに言うのなら、あんた作ってみい」と、逆に怒鳴られる始末。

 一筋縄ではいかない工場運営でした。
 売るのには長けていても、物を作ることはなかなかうまくいかなかったようです。
 この時の東京での体験に懲りたのでしょう、以来、不得意なこと、とりわけ物を作ることには興味を示さなくなったといいます。
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by sozakiweb | 2007-02-20 13:14 | 電気街を作った男たち
◆どこへ行くのかわからないほど変身を続ける日本橋電気街。
 街は時代に応じてかわるものと言われるが、先人たちの熱い思いは忘れてはならず、大切に受け継がなければならないと思います。
 そうした意味でも、電気街を作ってきた人たちに敬意を払うとともに、彼らが何を考え、どう行動してきたかを学んでみたいと思います。

 そこで今回から「電気街を作った男たち」 Part2をお届けします。Part1は2004年6月に8回にわたって連載しました。久々ですが、その続編となるものです。


◆昭和5年、まだ古着屋と古本屋の街だった日本橋に出店した中川章輔商会(後の中川無線電機)は、ラジオ電気器具の卸と小売をしていました。
 昭和10年代になるとラジオの普及もあって、東京、岡山、広島、福岡へと支店を設けるなど、商売は拡大の一途をたどっていたといいます。

 当時、日本橋の本店で総支配人をしていたのが、後に独立して日本橋に二宮無線電機商会(現ニノミヤ)を開く二宮荘吉氏でした。

 荘吉氏はそれ以前、東洋紡の人事部に勤めていましたが、頻発する労働争議への対応に疲れ身体を壊してしまいました。実家がある岡山で静養生活を送ることになり、休職届けを出して大阪を離れますが、これが人生の転機となりました。

 1年、2年、岡山での月日はたちます。
 「このままのんびりしていては会社にも迷惑がかかる。ここらで区切りをつけて新たな人生のスタートを切らねば」と決心した壮吉氏は、会社を退職し、岡山市内にあった中川章輔商会の支店を訪ねました。

 そのころの中川章輔商会は創業者の中川章輔氏が社長を努め、台湾の台北、台南、中国の北京、天津、上海、広東、香港などにも営業所を持ち、東南アジアにまで営業網を広げるといった手広い商売をしていました。主に軍需品などを輸出していたといいます。

 荘吉氏は願い通りに岡山支店に入社します。
 そこで頭角を現すまでには、さほど時間はかからないかったようで、しばらくすると日本橋の本店勤務を言い渡されます。
 思わぬ栄転で、再び大阪の地を踏むことになりました。
 そこでは国内営業をとりしきる総支配人というナンバー2の地位に上り詰めます。

 しかし隆盛を極めた中川章輔商会も、敗戦によって本店は跡形もなくなるなど、すべてを失ってしまいました。失意の中で昭和20年になくなった章輔氏の跡を継いで、三男の彰氏が中川章輔商会の看板を再び出します。

 ところが荘吉氏は独立を申し出ます。
 日本橋4丁目でラジオ部品などを卸販売する間口二間半の小さな店を始めたのでした。
 終戦間もない昭和20年8月のことです。 (続く)
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by sozakiweb | 2007-02-18 23:02 | 電気街を作った男たち
 日本橋で伊東氏が始めた部品店「共和商会」は、停電灯が市場で人気を博すようになって、それには欠かせないセレン整流器を売ることで軌道に乗り始める。
当時、セレン整流器は軍隊の放出品であったが、各地へ買出しにでかけては品物を集めたという。

 「吊り下げて持って帰ってくるんですが、重たかったですな。夜行で行って夜行で戻ってきました」

 商売を始める前、伊東氏は軍隊にいた。北京でラジオロケーターを使って敵機の探索をしていたことは前にも触れたが、そこで玉音放送を聴いて復員して大阪に帰ってきたのは昭和20年11月26日だった。

 底冷えのする午前3時頃にようやく大阪駅に着いたという。前日の25日は誕生日であった。「誕生日には帰ることが出来るかもしれない」と期待していたが、それは叶わなかった。しかしやっと大阪に帰り着いたという喜びは、そんなことも吹き飛ばしていた。

 駅前ではたくさんの人が火を囲んでいた。あまりの寒さに足は自然と火に向かい冷え切った身体を温めていると一人の男が板切れを抱えて近づいてきた。

 「兵隊さん、これはわしら商売でやっとるんでなぁ、お金払ろて」 「兵隊から帰ってきたばかりで金なんかあらへん。替わりに煙草をあげるわ」
 持っていた煙草中から2、3本を渡すと、男は黙って立ち去っていった。
 当時、この商売を「当り屋」と呼んでいたという。今は車に当たるのを言うが、その頃は火に当たらせるのをそう呼んでいた。

 そこで一番電車まで待って東住吉の実家へ帰ったが、そこには家族は誰もおらずに他人が出てきた。一体、どうしたことから訪ねると「大和・御所のほうへ帰られましたで」という。そこで疎開していたことを思い出し再び重い足を引きずってそちらへ向かった。
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by sozakiweb | 2004-06-26 16:18 | 電気街を作った男たち
 下駄屋、洋服屋、古着屋、古本屋、新本屋などいろんな商店が軒を並べて戦後の日本橋筋商店は存在していた。
 当時の商店街は決して活気のあるものではなかったが、伊東氏の目には「街の片隅にある商店街よりも大きなものだった」と映ったといいます。

 日本橋筋商店街がある堺筋には戦前、市電が通っていた。3丁目の松坂屋(現高島屋別館)から難波方面と北浜方面へと分岐していました。
 当時バスは、大阪市営の青バスと民間の銀バスが走っていましたが、戦後、沢田電器が商売を始めた時、銀バスのボディを店舗にして商品を並べて売っていといいます。

 戦後、日本橋に淺川無線という部品店があった。ここの経営者、浅川氏は陸軍
士官学校、陸軍大学を出て、陸軍少佐にまでなった人でした。ところで戦後は軍
人はすべて解雇。仕方なしに商売を始めた。階級章こそ取ってあったが、将校マ
ントを着て軍人の姿そのままで店頭に立っていました。

 伊東氏はその淺川氏と東京・神田(今の秋葉原)へ、真空管など部品を買出しにしばしば出かけています。当時は露店がたくさん並んでいました。そこで部品を売っていました。

 その頃、良く売れていたものに「停電灯」という商品がありました。
 伊東氏は、それに使用するバッテリーを販売していました。

 停電灯は、小さなバッテリーで普段充電しておき、停電時に豆球を点けるというものでした。バッテリーには30Aの容量の大きなAバッテリーと小さなB バッテリーがありました。
 停電灯に使っていたのはこのBバッテリーで、ひとつ2Vのバッテリーを3つ入れて6Vにして豆球を点していました。

 セレン整流器で充電する仕掛けになっていました。伊東氏からバッテリーを買っていたったラジオ店などは、それを木の箱に入れて停電灯として販売していたのです。その中に日本橋のマルタンムセンの丹野氏の姿もありました。
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by sozakiweb | 2004-06-26 16:16 | 電気街を作った男たち