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電気街を作った男たち 続・二宮荘吉氏  二宮無線電機商会創業者

2007年2月18日から2月27日まで連載しました「電気街を作った男たち 二宮無線電機商会創業者二宮荘吉氏」の続編をお届けします。


◆創業者の二宮荘吉は、昭和46(1971)年、自動車事故で66歳で亡くなっている。出社前に保養所物件を下見に伊勢へ向かう途中の出来事だった。店舗は本店のほか「枚岡(出張所)」「えびす」「京都・寺町」「枚方」「高槻」「布施」「庄内」「香里園」の9店舗に増えていた。
 当時27歳だった松島秀夫(現63歳)は、地方担当社員として徳島の得意先へ出張中だった。事故を知って急きょ出張を中断し、大阪へ戻ったという。
 入社当初から荘吉の薫陶を受けていただけに、大阪へ帰る船中ではいろんな思い出が蘇ってきた。(敬称略)


◆松島は商業高校を卒業後すぐ、昭和37年に二宮無線電機商会に入社している。
 1ヶ月は店の雑用係りだったが、その後外商を担当している。商業高校出身ということもあって、直流交流はもちろん電気のことについてはまったくわからなかった。
 「それでも、1人で外へ出されました」

 外商社員の松島の仕事は得意先の会社を昼休みに訪問して電化製品の展示販売をすることだった。東洋ゴムやヤンマーディーゼルなど一流企業もたくさんあった。軽三輪車に扇風機や炊飯器、ラジオなどの電化製品ををいっぱい積んで、毎日会社訪問の繰り返しだったという。

 「午前11時20分ぐらいに現地に着いて、長い台をふたつかみっつ並べて、そこへ商品を置いて売るんです。購入者は給料から天引きで、労働組合からお金が入ってきていました」

 まだ家電品は普及していない頃だった。携帯ラジオが何十台って売れたし、軽三輪車いっぱいに積んだ30cm幅の扇風機が全部売れたこともあった。扇風機1台1万円程度だったという。松島は給料8400円で入社している。
 売ったら自分で配達していた。売れるのは楽しいが、売れるほど仕事が増えた。

◆その頃の社長の思い出を松島は話している。

 「労働組合の強い会社は外商部門でよく買ってくれていました。そんな会社を年に1、2回、食事に招待することがありました。そんな席に社長は入社したての若造にもかかわらず、その席にも連れて行ってもらいました」
 若くても外商担当者として認められたということに松島は喜んだ。これが仕事の奮起につながったことは言うまでもない。

 「展示会が終わって夜遅く店に帰ってくると、社長は必ず検品のために店の上にあった自宅から降りてくるんです。店を出る前に持っていく商品を記した商品伝票と、持ち帰った商品との照合をします。社員が不正をするのを防ぐためでもあったのですが、そうした細かなところまで厳しかったですね」

 やはり店の上にあった寮の部屋に戻っていると社長から声がかかった。
 「晩御飯を食べろと言って家に呼んでくれるんです。社長の家にはその頃すでに電子レンジがあり、それで酒を燗して出してくれました」

◆外商担当者はは6、7人いた。それ以外に地方担当者がいた。
 「地方担当は特別な存在で、キャリアがあって販売実績がある人たちが担当していました」 
 松島も「外商を経験して早く地方担当になるのが夢でした」と話している。

 地方部門が販売するのは部品とオーディオ機器などが主力だった。60Hz地域をエリアに出張の連続で、得意先の中には山間部にあるところもあり、それは大変な仕事だったという。
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by sozakiweb | 2007-04-15 13:36 | 電気街を作った男たち