日本橋電気街に関連したニュースをお伝えする情報サイトです。 「日本橋( NIPPONBASHI )経済新聞」は 略して”バシ経”。


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第一航空情報連隊時代 電気街を作った男たち 1 正電社 伊東雅男会長 4

 伊東氏は日本橋でラジオ部品店を始める前、兵役で中国・北京にいました。終戦も北京で迎えています。宿営は城壁の近くにあったといいます。

 戦前、電器業界に入った多くの人は戦争を体験しており、そこで電機技術を身に付けたという人も少なくありません。伊東氏もそうしたひとりでした。

 静岡県磐田市の今は静岡大学の農学部になっていますが、そこにあった第一航空情報連隊へ入隊しています。当時としては一番新しい兵科だったといいます。そこで伊東氏はラジオロケータ(電波警戒機)を担当していました。

 ラジオロケータは、太平洋戦争緒戦のシンガポール攻略戦で、イギリス軍から捕獲し、日本で解体して作ったものでした。
 「私たちはそれを研究して分解したり、組み立てて日本製のラジオロケータを作り上げました。福岡経由で韓国へ送り、満鉄の貨車で北京まで持っていったのです」

 北京の城壁の上にそのラジオロケータを設置したといいます。20mほどのアンテナを立て、セルモーターでアンテナを回して超短波を発射、敵の飛行機の金属に当たって返ってくる反射波をつかみ、敵機が近づいてきたことをつかんでいました。

 「補足した映像が大きければ”映像大”といった具合に、敵機が近いと連絡するのですが、今のレーダーと違って相手の機種も何もわからず、ただ何かが飛んどるぞぐらや。
 しかし前の日には味方の飛行場から、味方の飛行機の飛行予定と空路を知らせてくれていたので、それ以外のものは敵と判断していました」

 反射波を分析して味方の飛行場に1~2分間隔で連絡するのですが、味方はなんとも頼りなかったそうです。

 「敵機を発見して味方に連絡しても、味方の飛行機は”疎開”してしまってるんですわ。応戦どころではありませんよ」

 8月15日、終戦。その10日前に伊東氏は蒙古への転属命令を受け取っていた。しかしその頃には、北京のあちこちに「日本の軍閥が負けた」という張り紙があったといいます。

 「ですからこれはあかんとわかっていましたが、終戦がもう1週間でも遅ければ、シベリア送りになるところでした。終戦が早かったので助かったんですが」

 このときシベリアへ行っていたら、この「電気街をつくった男たち」の連載も実現していなかったかもしれません。
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by sozakiweb | 2004-06-19 11:32 | 電気街を作った男たち